昭和42年6月27日 夜の御理解


 神様が信心しておかげを受けてくれよと、私共人間氏子に呼びかけておられるんですけれども、その信心しておかげを受けてくれよということは、それぞれの難儀から救われ助かってくれということでしょうけれど、一番おかげを受けて欲しいと願っておられるのは、氏子信心してお徳を受けてくれよということだと思うんです。そこをあの信心とこう表現しておられるのじゃなかろうか。まぁあの意味はいろいろありましょう。病気が治ったこともおかげ、金銭のお繰り合わせ頂くこともおかげ、信心してそういうおかげを受けるということも有り難い。けども本当に、神様の願いとされるところは、それではなくて、どうぞ、氏子信心してお徳を受けてくれよと。お徳というのは、誰でも受けられる。みてるということがない。とまで仰る。
 ですからそのお徳を受けるという、その課程においてお互いおかげを受けなければ分からんのでございますけれども、只今あの御祈念に座らしてもらいます前に、総代さんの久富さんがお届けをなさいました。昨日からあちら田植えが始まっておる。お百姓さんの田植えといや、まぁ大変ないうなら身体を使われる事であろう。水の中に一日入らして頂いて、御用さして頂くのでございますから、私共百姓したことのないものじゃとても想像もつかないほども苦労であろうと思う。腰も痛かろう、身体も本当に疲れるだろう、という中にやはり昨日でも土居の共励会でございましたから、家族親子三人、やはり善導寺までお出でられている。そして夕べは十一時半頃でしたかね、ここへ御礼に出てみえられたのですから、もういうならば、まぁ椛目でも、まぁ代表的な信心であると同時に、だからこそまぁ総代の御用でも頂かれておるのでございましょうけれども、まぁいうなら手本のような信心をなさっておられる。昨夜もそんなに遅う帰ってから最後皆休んでから、神前にでて御祈念をされておられた。ところがねそのこういうようなお知らせを頂いておられますですね。大きな鯛を御心眼に頂かれてですね、この鯛をね、冷蔵庫にしまっておけ。次のお祭りまでというような事を頂いておられる。鯛のお知らせはここではおかげという。ですから結局おかげというのはね、あの永くはもてないということなんですよ。おかげというのは、おかげの喜びといったようなものは、どんなおかげを頂いてもそれこそ人間は喉元過ぎれば熱さ忘れるですから、もうそれこそせいぜいまぁ冷蔵庫に入れるような信心さして頂いてもです、そういつまでももてるもんじゃないです。いうならば次のお祭りまでやっとかっともてるもの。ですからお祭りで又その有り難いものを仕入れて帰って又、次のお祭りまでというようにです、もうここにその油断もすきも出来ないという感じですね。おかげだけ、おかげを受けて有り難いというのは、そう持続出来るものではないということ。
 ですからもう椛目に御神縁を頂いて、もう十五年にもなられますでしょうか、もうぼちぼちいわゆる、お徳を受ける信心にならして頂く。いわゆるどうぞ信心しておかげを受けてくれよという時からどうぞ、信心してお徳を受けてくれよと。そしてあの世、この世をかけてのおかげ。徳というものは、みてるということがない。あの世にも持っていけ、この世にも残しておけれるという。そこでですね、私はその徳を受けていくということは、これは久留米の初代なんかはね、御神徳というのはな、神様の御信用じゃとこう仰った。神様の御信用が得られるということなんだ。同時に、又石橋先生は、そうじゃなぁ御神徳を受けるということはな、普通の信心じゃいかん。という意味の事を仰っておられる。これはあの又別字問だからと仰ったそうです。確かにそうです。御神徳を受けるのは別字問です。まぁそれは私共が正常な信心を頂いておって、正常というと今まで習って来ておった信心をですね、ただ一生懸命努めただけ位のことで、お徳が受けられるもんじゃない。お徳を受けるということは、やっぱりその氏子、氏子の精根についてからの事でございましょうけれどもです、その根に応じてからの事でございましょうけれどもです、ここに工夫がいる。普通じゃいかん。そこでやっぱりです、まぁいうならば、少し、あの人はぼうけてござるとじゃなかじゃろかというくらいな、信心がです、例えば久富繁雄さんあたりでも、どっちかち言うたら、あの人はぼうけちゃなかろうかというごたるでしょうね、この取り上げとか、田植えとかという忙しい中にでも、ちゃんとそのお百姓さんですけれども、お風呂へ入ったら、言うなら背広着込んで、ネクタイしめて、こりゃもう夏も冬もない。本当にそれこそ身なりひとつ崩さずにお参りしてみえるんです。さぁ何事かといやもう取り上げの忙しか、どんなにみんながバタバタしよろうが、やっぱり神様の方へおかげ頂かれるんですからね、ですから、そのまぁ一番まぁ分かりやすく言うなら、今朝あたりの御理解なんですけれども、どうでもその私本位の信心からです、神様本位の信心にならなければいけないということですね。氏子が神様本位の信心になりゃ、神様が氏子本位になって下さるといったようなおかげこそが、こりゃお徳を受けたものの姿です。神様を自由自在に使うと言うと、語弊でしょうけれども、神様がその氏子の為に徳を受けた氏子の為に、自由自在にはたらいて下さるのです。神様どうぞ、どうぞお願いしますと云うて、神様にはたらいてもらうというのとだためが違う。
 それには先ず、私共が神様まかせの信心と言うか、言うなら神様本位の信心なのである。神様本位ということになってくるとですね、いろいろ又意味が大変広いけれども、もう自分なんかの事を云うておられないのです。神様本位ですから、。
今日誰でしたかね、昼来て、椛目の信心は合理的ではない。けれども超合理的だとこういう。誰だったかなぁ。ああ高橋さんでした。その超合理的なところがあの富永さんとこの問題で、その富永さんがまだその超合理的なところが分からんもんねという話でございました。けども、そう言いながらも段々その超合理的な信心を頂こうとこう言うような、その姿勢にあるですね、というて話した事でございました。
 昨日朝も徹君が参って参りましてから、先生あの富永さんが、今あすこに泊まっていますからね、まぁ言うなら居候しておる訳なんです。あの椛目まで歩いて参ろうと福岡から。で僕はどげんさしてもらいましょうか。とこう言う。そうじゃな、私はそういう信心を奨励はせんばい。けれども本人がですね、そうでもしなければおられないようなものを今感じておるとするなら、あんた伴走いれてやるようなつもりでね、あんたもついておいでと私は申しました。これなんかは、もう合理的な信心ですからね、やっぱりもう本当に枯れ木に花が咲くようなおかげを頂く為にですね、やっぱりこれはもう超合理的なとは思っていないけれども、そういう信心を願っておる証拠だと私は思うですね。ですからどうでもそこんところをですね、お互いがひとつ体得させてもらわなけりゃいけん。合理的ではないけれども、超合理的だと。だから絶対非合理ではない。その超合理的なと言うことの中にでも、整然として教学の裏付けが出来る。
そういう信心こそが、私はお徳を受けていく。まぁ手はずというかね、お徳を受けていくための信心。ですからその辺を通る時には矢張り、お前そげんまでせんでんというような事があるかもしれませんけれども、やっぱりそこんところをです、まぁだそのお徳を受けていくということにはいろいろございましょう。けれども普通の信心では、私はおかげは受けられない。お徳は受けられない。けれどもならそれがです、大変なら至難な事かと、難しい事かと言うと、決してそうじゃない。神様におかげを頂かしてもろうたら、神様に心の上におかげを頂かしてもらうたら、その事がです、もう有り難く嬉しゅうできれる道があるんだ。大空にそびえてみえる高嶺雲、登れば登る道はありけりである。本気でそういう道をもとめようとすりゃですね、もう絶対道があるんだ。断崖絶壁、登れるはずがない。登ろうと思わないから登れないのだ。登ろうと思ったらちゃんと手をかけるところ、足をかけるところあるから、不思議なんだ。問題はその、それに登ろうと言う意欲を出さんから、ただ下から眺めておるだけなんだ。
 私は今晩その久富さんのお届け聞かせてもらうてです、ハハァ繁雄さんあたりこそお徳を受けられる信心だろうと思ったけれども、いやいやそれはまぁだおかげの鯛を、いや最高のおかげと仰るから、最高のおかげを頂かれてもです、お徳を受けられる信心じゃない。もうお徳を受ける信心のいわばとはどういう信心をさしてもらうたら、お徳が受けられるだろう。神様のいよいよ御信用が受けられるであろうかと言う信心に、ふんぎりをつけなければならないところに、もう来ておられるような気がする。久富さんだけの事じゃない。お互いも同じ事、どうぞ信心しておかげを受けてくれよと言う内容の中にはです、どうぞ信心してお徳を受けてくれよと言う願いがその中に大きくあるという風に頂かねばならんと思うですね。此の世は徳の船に乗って渡れと久留米の初代は仰った。その徳の船に乗せてもらえるおかげをひとつ頂きたいもんですね。      どうぞ